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2006年8月 3日 (木)

丸山定夫、移動演劇「さくら隊」 その2

こんにちは。いちのせです。

演劇の話題ですみません。 カイロのブログなのに困っちゃいますね^^;・

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丸山定夫のこと 八田元夫氏の回想

明治34年、松山に生まれる。のち、広島で劇場の下足番、土方から始まり、広島浅草オペラの歌手であった大須賀八郎の一座に入り、役者人生が始まる。その後、浅草オペラに入り、無名の頃のエノケンと大部屋で過ごす。

大正13年、築地小劇場創立の話を聞き、単身上京し、日本最初の新劇の独立劇場の研究生となる。築地小劇場のこけら落としの開幕の銅鑼(どら)丸山定夫が叩いた。

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研究生の中で丸山は頭角を現す。築地初舞台は第二回公演の「狼」、さらに13回公演の「どん底」のルカーの好演で脚光を浴びる。その後、「桜の園」、「三人姉妹」(チェホフ)など丸山の個性的な演技で、存在感を増して行く。

5年目の昭和3年、「ペールギュント」で決定的な存在となる。

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昭和4年、薄田研二らと新築地劇団創立。旗揚げ公演では「生ける人形」ゴーリキーの「母」等で、好演技を見せる。

新築地時代の最高の演技は、三好十郎の「浮標(ぶい)」の主人公、久賀五郎であったといえる。三好と深いかかわりがあった丸山は、それこそ火の出るような稽古を通じて、作者が彼に擬した役を実に見事に演じた。この時期の日本新演劇の役の最高水準を示した演技であった。

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三国一朗氏の回想

丸山定夫にしても、園井恵子にしても、私たちの世代(大正後半~昭和初め生まれ)にとって、その面影は今もって非常に鮮烈なものがある。たとえば、昭和17年5月、私は国民小劇場(旧築地小劇場)の文学座公演で「富島松五郎伝」を見た。松五郎を演じたのが丸山である。その年の12月、新宿の新宿大劇場で「見しらぬ人」「生まれた土地」「玄関風呂」という3つの芝居を見た。それが「さくら隊」の母体の「苦楽座」の旗揚げ公演だった。

次の年、入営を前にして見た映画が先の「富島松五郎伝」を映画化した「無法松の一生」だった。その中の吉岡婦人に扮した園井恵子の名演技をどうして忘れることが出来よう。・・。

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さて、続きですが、丸山定夫が広島の郊外の小屋浦にいるらしいことがわかった八田は、とうとう8月12日に、念願の丸山と再会をする。

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  • 8月12日 八田は、l朝、厳島から電車を乗り継ぎ小屋浦へ行く。「小屋浦は寂れた漁港のようなところで、国民学校が病舎になっていて、校舎全体にやけどを被った被災者、化膿してうじが涌いているような人々がびっちりと詰められている。
  • 教室を一つ一つ調べながら、一番奥の教室の廊下の窓から中をうかがうと、廊下に面した窓の真下に、丸山が土色になって寝ている。丸山に「おい、ガンさん、オレだよ。八田が来たよ!」というと、「うーうーうー」唸りを上げながら、カンカンカンカンと床を叩いて、「来てくれたか、来てくれたか!」と泣き出して言うんです。
  • 部屋に入っていくと、丸山は体中痛いらしい。パンツ一枚で寝ている。手を回して起こしてやると、丸山は「みんな(さくら隊の自分以外の8人のこと)はどうした?」と言う。「わからない」と八田。 丸山は大変深刻な顔をして「俺だけ生きてしまったのか・・」。
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  • 罹災の模様と聞く。 朝、食事を済ませて、(広島市内の)宿舎の部屋にいたら、ピカっと来たとたんにガーンっと叩きつけられ、そのまま気が遠くなったと。それからどのくらいたったかわからないけれど、きな臭い匂いがして、ぱっと気がついたら、真っ暗な中に一点明かりが見える。無茶苦茶にあたりをかき分けはいずり出たら、一面火の海だった。もうただ、無性に駆けた。比治山という避難所へ向かう人々の走る方向へ一緒に駆け出し、そこへたどり着いたら、倒れたらしい。

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その日、すでに丸山は40度近い熱があった。八田はどうにも出来ないので、丸山を病院へ残し、また改めて迎えに来るというと、丸山は必要に抵抗し「連れて帰ってくれ」と言うことを聞かない。仕方なく、病舎の医者に相談すると、「もうこの野戦病院には、ひまし油と赤チンと解熱剤とビタミンBの注射しかありません。本人が帰りたいというなら、お連れ下さい」。

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40度の熱をワイシャツに水をしみこませ、頭にあて、何度も何度も取り替えながら、冷ましながら、、汽車の中は通路に寝かせ、その日、厳島の存光寺(珊瑚隊宿舎)まで帰った。

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  • 8月13日 「さくら隊」宿舎後から、5体の白骨が掘り出される。「さくら隊」の9人のうちの5人(島木、森下、羽原、笠、小室~全員女性)であった。 お骨は厳島へ運ばれる。丸山は大変なショックを受ける・・「自分は力があり、這い出せた。這い出そうとしても這い出せず、それで蒸し焼きにされていたらどうだろう」・。
  • 8月14日 眼を離すと水を浴びに行く。40度近い熱があるのに、眼を離すたびに水を浴びに行く。  厳島の上を空襲の編隊が過ぎていくのを見上げて、「日本がこれだけやられて、どうして手を上げないんだ!」
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  • 8月15日 終戦の放送を聞いて、「また芝居をやれる時期になったね。オレ、こんな身体になっちゃったけれど、あと2年したらいい芝居をやるよ!」

8月16日 空襲がなくなる。八田は残りの「さくら隊」の3人のメンバーがどこかの国民学校病舎に収容されているかもしれないと、探しに行く。

最終の汽船で厳島に戻ってくると、丸山は静かに寝ている。が、ちょっとおかしい?と思い、触ったら冷たい。隣に寝ている人を起こしたら、「つい30分前にオレは寝たばかりだ」という。あわてて、存光寺に一緒にいた「連盟」の人、珊瑚座を起こし、今まで見てもらっていた女医をたたき起こし、臨終を確認する。

「そのころは、もう毛が抜けかけていて、原爆症と以前から患っていた肋膜炎が合わさって亡くなったようです。 ところが宮島には焼き場が無い。宮島口と往復している国鉄の汽船は棺を載せられなく、翌17日に船を雇って広島へ運び、山の火葬場で荼毘に付しました」

ー続くー

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参考文献・引用文献 

八田元夫『ガンマ線の臨終』 ヒロシマに散った俳優の記録 未来社 1965年

東京12チャンネル報道部 「証言 私の昭和史5」 学芸書林 1969年

http://www.photo-make.co.jp/sakura.html

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/maruyamasadao.htm

http://www.h3.dion.ne.jp/~nanchan/horo/horoyoi.htm

http://www.chugoku-np.co.jp/abom/2006/news/An06071901.html

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